2017年04月08日

旅立ちの日

昨年9月から入院生活となっていた父が本日早朝、息を引き取りました。
享年87。

昭和4年に鳥取県で産声を上げた後、物心つく前に遠縁の親戚の家の養子となり、立派なお父さんとお母さん(ぼくから見て祖父母)そして幼い妹や弟と共に当時は日本領だった朝鮮半島の釜山で太平洋戦争の真っ只中をくぐり抜け、様々な困難を乗り越えて日本へ引き揚げてきた後、間もなくお父さん(祖父)が亡くなってしまい、18歳の若さで一家の大黒柱とならざるを得なかった父は、戦後の闇市で米軍から払い下げたお菓子を売ったり、米軍のジープの整備なんかの仕事をしてうちに、化粧品会社の社長さんに拾われてその後の人生の大半をその会社に捧げることになります(この社長夫妻からは息子のように可愛がられたらしい)。
その後母と出会い、結婚、出産、マイホーム(今ぼくが住んでるレトロ団地)購入、と、当時の日本の高度経済成長をモロに支えてきた世代の典型のような人生を謳歌してきた人でありました。

息子であるぼくとは違い、父は毎日の晩酌を欠かさない酒飲みであると同時に、非常に真面目な仕事人間でもありましたが、絵や毛筆が上手かったり、機械工作や日曜大工が得意だったり、家族である妻や娘や息子に対しても家族サービスなんかもよくこなし、いつも寛大な心で接してくれて、特に遊び人間(笑)であった母と、その血統を受け継いだぼくにも、好き勝手させてくれた優しい父でもありました。
しかし定年後は仕事尽くめの反動なのか、心の底から休息を求めたのか、陸に上がって日光浴をするオットセイのようになってしまい(笑)心配した母がちょいちょいドライブや散歩に連れ出してはいたものの、次第に認知症や糖尿病の影響で衰えてゆき、母が2009年に癌で他界してからは毎日のように母の行方をぼくに聞いてくるほどにボケてしまいました。
そんな母亡き後の父の介護はぼくが看ていたわけですが、最初の頃は母を亡くした悲しみと介護の疲れで心に余裕が無くなって怒鳴るように父を叱りつけたこともありました。
でも月日が経って母を亡くした悲しみも癒え、ボケた父とのやり取りの経験値が増えるにつれ、そうした腹立たしさや怒りは発生しなくなり(過去に怒鳴りつけたことを後悔したほど)介護生活後半は、なんだかとても穏やかで平和でコミカルな毎日だったようにも思えます。
その後、脳梗塞をきっかけに始まった入院生活で急速に衰えていった父は、しゃべることができなくなる少し前に、毎日見舞いに行ってたぼくが帰ろうとした時に、弱った肺活量を振り絞るように「お、お疲れ様」と精一杯大きな声をかけてくれたことが今でも強く印象に残っています。
そして声が出せなくなってから、今年の家の年賀状用として病院のベッドで寝たまま書いてもらった「あけまして おめでとう おおた けんじ」というガクガクに震えた線ではあるものの、まだまだハッキリとした意志を感じる文字。これはもう大切な形見です。
最後はもう本当に文字通り骨と皮だけのような体になって、ただただ点滴を受けて寝ているだけとなり、亡くなる2日前にぼくや姉が見舞いに来た時は、妙に今までよりも調子良さそうなケロッとした顔でぼくと姉の顔を交互に見比べるような感じで何度も見ていましたが、もしかしたら今生の別れを告げようとしていたのかもしれません。

そして今日の午前6時ちょっと前くらいに家の電話が鳴り「呼吸と心拍がかなり落ちてきているので、ご家族の方に来ていただきたいのですが…」という病院からの連絡があり、急いで車で病院へ向かいましたが、残念ながら旅立ちの瞬間を看取ることはできませんでした。
やっと病院に到着して父に会うと、よくエジプトのミイラとか氷の中から発見された古代人とかに見られる、小じんまりとしたポーズをとってはいたものの、人生を全て生ききったことが伺える、見事な往生の姿をしておりました。
母はちゃんと迎えに来てくれたかなぁ。

今にして思い返すと改めて本当に立派な父だったと思います。
最後の最後はちょっと辛かっただろうけど、ホントによくがんばりました。
今まで長い間、本当に本当にお世話になりました。
さようなら、ありがとう。

…といったわけで、またまたちょっとヘヴィーな記事となりましたが、ぼくにとっては非常に重要な出来事だったので記事にしました。
これからちょっとばかし事務的なことでバタバタした後は、100%ぼくの人生に全力を注ぐ所存でございます。
posted by 文鳥 at 18:14| 東京 🌁| Comment(4) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
87歳
ひと昔で言えば大往生ですね。
晩年はご家族ともども大変だったと思いますが、幸せな生涯だったと思います。
私の父は(健在)昭和13年ですが、昭和10年以前に生まれた方の人生感は、まったく違うと聞いたことがあります。
その方々は、戦争へ行って死ぬことが当然の努めだと思っていたので、終戦を迎えたときに大変戸惑ったそうです。
短い人生と思い込んで生活していただけに、なんだか命を拾った思いがあり、その後の人生をしっかりと考えることができたそうです。
関西には三宮に大きな闇市があり、宮本輝の「流転の海」はそこが舞台となっています。
撮影所勤務時代で、初めての仕事が「流転の海」の映画製作でした。
同じ時代に生きた美術監督がデザインしたその闇市のオープンセットは、大変迫力のあるものでした。
その時代を生きた人間の格の違いというか、スケールの大きさを象徴しているかのようでした。
老人ホームに勤務する現在、「お悔やみ申し上げます」と言う言葉はなかなか口から出にくいものです。
ご家族も最後まで精一杯接し、ご本人も人生を全うされ、どちらにも悔いのない事であってほしいと思っているからかもしれません。
第三者である私が掛けられる言葉は何もないと思います。
終戦をむかえたときのお父様の思いに近いものが、文鳥さんにもあるのではないでしょうか?
これからの文鳥さんのご活躍に期待しております。
Posted by goto at 2017年04月09日 09:07
>goto様
暖かいコメントありがとうございます。

父は終戦当時16歳で、同級生の中には予科練に行った人もいたようですが、幸いなことに父は戦闘に参加することなく引き揚げてこれたようです。
ちなみに父の実兄の内数人は出陣してまして、ぼくの伯父にあたる人(故人)には軍人手帳や軍刀等の装備品や恩賜の煙草とか、貴重な戦時下の品々を見せてもらったことがあるのですが、こんな身近に従軍経験者がいるということが妙に誇らしかった記憶があります。

母は昭和11年生まれで、戦前〜戦中は神戸のお嬢様育ちだったようですが、戦後お父さん(祖父)が悪い奴に引っかかって財産を失って以来苦労することになったそうで、憲兵が怖かったとか、家の家財道具に差し押さえの張り紙されたとか、弟が廃品回収業者のリヤカーを勝手に持ってきちゃったとか、没落する前は近所の公爵さんが白い馬で出かける様子をよく見ていたとか、無免許で知人のミゼットを運転させてもらったら踏切でコケて大騒ぎになったとか、現在では経験できないようなことを面白おかしく話してたことを思い出します。
母に関してはおしゃべりさんだったので、こういった当時の雰囲気を窺い知れる話を事ある毎にたくさん聞きました。

父は話下手ではあったものの、認知症になる前に自らワープロ(パソコンではない:笑)を使って自伝みたいなものを書き残してくれていたので、けっこう細かく父の人生を知ることができたんです。
その自伝の文章が少々下手ではあるものの、内容は非常に面白くて、子供時代から就職するまでのくだりはNHKの朝の連ドラみたいでした(笑)。
ぼくは両親からはこういった話を聞けましたが、祖父母に関しては、ぼくが生まれた時点で両祖父ともに故人で、両祖母もぼくが幼い頃に亡くなったので、その世代の昔話を直接聞けなかったのが残念ですね。

ぼくの印象としては、やはり戦前戦後を生で知った世代は、バイタリティがあるというか、人生を切り開いていく力の強い人が多かったように思いますね。
かといって貪欲でガツガツしてるというわけではなく、与えられた環境や人生を柔軟にこなしていくといった感じでしょうか。
時代背景というのもあるんでしょうけど、ゼロから何かを構築していくワクワク感というものを、あの世代の人たちの多くが経験していたんではないかなぁと思います。

でも改めて考えてみると、少々社会や環境が異なる現代でも、そういう生き方は可能なのではなかろうかと、ものづくりを始めてから思うようになりました。
レールの上を進むだけではなくて、途中下車して道なき道を進むこともできるんだなぁと。
まぁ途中で野垂れ死ぬ可能性も大きくはなりますが(笑)。

亡くなった本人もそうだとは思いますが、やはり残された家族としては「ああすればよかった、こうすればよかった」という悔いは誰しも必ず出てくると思います。
母の時もそうでしたし、今回もそうでした。
でもこんなある程度死期が予想できる状況でも後悔することはあるわけなので、ピンピンコロリのような突然の死に関わったご家族はもっと大変でしょうね。
まぁ悔いたところでタイムマシンがあるわけではないので、その悔いを教訓として先に進んでいくしかないっすね。

これからは事務的なことでしばらく大変なんだろうけど、それが済んだら創作活動に邁進する気持ち満々ですのでご期待ください。

それにしても流転の海のオープンセットを生で見たなんて羨ましい話ですな…。
Posted by 文鳥 at 2017年04月09日 16:10
どうもご無沙汰しております。
お久し振りに覗きに来ましたら、お父上が亡くなられたとの記事が…介護のご様子はブログの中でもしばしば触れられていたので承知してましたが。
文鳥さんの心中お察しすると共に、お悔やみ申し上げます。

お話聞く限りでは、お父上も静かな良い晩年を過ごされたんじゃないでしょうか。
ウチは自分が高校生の頃に父が癌で他界し、兄が外に出たのでずっと自分と母の二人暮らしですが、もしこの先母がそうなった場合、文鳥さんの様にちゃんと介護できるかどうか、正直今だに自信がありません…。

自分も母ももうそういう年なので、文鳥さんを見習ってしっかりしないといけませんね…。
Posted by みほとこうじ at 2017年07月20日 16:59
>みほとこうじ様
お久しぶりです〜。
コメントありがとうございます。

昨今巷では介護問題がよく話題になりますが、ウチの父は比較的おとなしかったので話に聞くような壮絶な介護なんてことが無かったのが救いですね。
父が現役時代に立派に勤め上げてくれたおかげで、年金もちゃんと入って金銭的な苦労が無かったというのも救いでした。

負担と言えば、時間的な自由度の無さと、徘徊、大小のお漏らしくらいでした。
慣れない内は「なんの修行だよ!」って言いたくなりましたが、やはり慣れちゃうとさほど苦痛ではなくなり、今となっては笑い話にすらなることも多いです。

ぼくは遅く生まれたので、世間一般の平均より早めに介護生活に突入しまして、最初は「他の同世代は自分の人生謳歌してるのに〜」って悔しい思いもありましたが、今にして思えば老々介護の方が大変だなとも思うようになりました。
若干不謹慎ですが、8年で済んだってのもまぁラッキーな方なんでしょうね〜。
そう考えると、さほど負担を残さずに世を去った両親には感謝の言葉しか無いです。

もし今後みほとさんが介護生活に突入したらば、ケアマネージャーさんとか地域の役所に相談して、いろいろ手助けしてもらうことになると思いますが、これも他人が介入してくるストレスってのがあるかと思います。
特に時間的な決まりがないフリーな仕事してる人間にとって、朝定時でやってくるデイサービスなんて苦痛でしたが、こういうのも結局慣れるしかないんすね。

介護生活が始まると、最初のうちは出口の見えない真っ暗なトンネルに入ったような気になるかもしれませんが、時間は絶えず流れて必ず終わりが来るわけで、最後の方はむしろ愛おしく、切なく、名残惜しくなってきます。
今思い返すと下の世話してる時や、入院して喋れなくなってる時ですら懐かしく愛おしいです。

みほとさんは早くにお父様を亡くされているのでわかるかもしれませんが、意思の疎通がしっかりできる内に言いたいことは言って、聞きたいことは聞いといた方がいいですよ。
ドラマみたいに死の瞬間まで意思の疎通ができることなんて稀ですからね〜。

まぁあまり深刻に考えたり悩む必要も無いかと思います。
結局当事者にできることと言えば、時の流れに身を任せて、その時その時で臨機応変に行動するしかないんですよね〜。
Posted by 文鳥 at 2017年07月20日 19:19
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